千曲錦酒造

佐久の地から日本酒の未来を見据え、常に新しい酒のあり方を模索し続ける

〒385-0021 ⻑野県佐久市⼤字⻑⼟呂1110

大胆に、実践的に。常識にとらわれない酒造りを旨として

戦国時代に武田武将として名を馳せた原美濃守虎胤(はらみののかみとらたね)の子、原大隈守虎昌が川中島の合戦で武勲を立て、武田氏から佐久岩村田の地を拝領しました。その子孫である原弥八郎が同地にて吉田家という屋号で酒造りを始めたのが1681年(天和元年)。以来「千曲錦」は佐久の地域で愛されてきました。

時は流れ、昭和4年に「千曲錦酒造株式会社」を設立。昭和38年には手狭となった蔵を佐久市長土呂の地に移します。小規模な蔵が主流だった当時、より効率的な製法を工夫し、各工程を一箇所に集約した大造りを行うなど、常識にとらわれない実践的な酒造りを行う気風は今も変わらずに受け継がれています。

佐久という地の利を最大限に活かした良質な酒を皆様へ

千曲錦酒造があるのは、標高700mの位置にある高原、佐久平。北に浅間山山系、南に八ヶ岳を臨み、その中心を「千曲川」が流れる冷涼な土地で、高級料亭等で珍重されるブランド米も作られます。良い水、厳寒の冬、良い米と、酒造りに重要とされる3つの条件が揃うこの土地には、良質な日本酒を醸す多くの酒蔵が点在。そうした中でも造り手、蔵の特色、そして使う水により大きく味わいを変えるのが日本酒の面白いところです。特に硬水である浅間山の伏流水を使って千曲錦が作り上げる酒は、出来上がった瞬間から輪郭のはっきりしたものとなります。

その力強い味わいは近隣では主に自宅での晩酌で楽しまれて来ましたが、昭和に入り首都圏へも進出。「良酒を安く提供する」信念を実践した結果、昭和50年代には生産量の7割強が首都圏へ出荷されるなど佐久の地酒という枠を超え広く愛飲されることとなりました。

新しいものを生み出す挑戦の心

しかし日本酒業界全体がブランドを向上させ高価格化が進む中、千曲錦酒造はその潮流に抵抗し「良酒安価」を貫き続けたことで、一時は業績不振に陥ったこともあったのだとか。

「歴史ある酒蔵ゆえの硬直した体制という理由もあったのだと考えています」そう振り返るのは現在の代表取締役である鎌田晴之社長。就任当時縦型の指示系統となっていた社内の構造改革に乗り出し、柔軟な意思決定ができる組織づくりを行いました。そして現在、造り手と売り手とが両輪となって運営する体制が整い、着実にその地歩を固めています。

杜氏の北島雅之さんも「造り手の感覚を重んじる昔からのやり方にも敬意を払いつつ、科学的な視点も取り入れ時代に沿った酒造りを行うのが私達の考え方なんです」と、千曲錦流の酒造りに対する思いを語ってくれました。

こうした社内環境で作られる千曲錦酒造の酒は多くの挑戦に満ち、だからこそ現在も多くの日本酒通を唸らせるものとなっていったのです。

千曲錦酒造からのメッセージ

世界的な流れとして、フランスではワインの消費量が減り、中国でも白酒があまり飲まれなくなっている現代。鎌田社長は「これから日本酒の酒蔵が減るということも加速度的に起こってくることでしょう。そうした中で我々が次の世代へ何を残すかを考えなければいけない時に来ているのだと考えています」と続けます。これまで「創造する酒造り」を行ってきた千曲錦では、その中で培った技術を用いてさらに新しいジャンルの開発も進めているのだとか。

「千曲錦にはたくさんの楽しいお酒があります。様々なジャンルのお酒の中からなにか一つお手にとってみてください。私達の楽しさがきっと伝わってくれると思います」と鎌田社長。造り手と売り手、双方が意見を出し合って新しい酒を造り続ける千曲錦の根底にあるのは、酒造りを追求することの楽しさ。またそれをお客様と共有することの喜びでした。

千曲錦酒造のご案内

営業時間

9:00〜16:00

アクセス

電車

JR小海線佐久平駅から徒歩約14分

中部横断自動車道 佐久北ICから約6分

アクセスマップ

千曲錦酒造での取り扱い商品

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